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 今年も、日本シリーズの時期になりました。野球が大好きだった晃がいれば、いろいろ話しながら、一緒にテレビ観戦をしていたことでしょう。私も一杯飲みながら、「ああだ・こうだ」と言いながら・・・

 4月15日、川越地裁に妻と2人で行きました。今回から、地裁の別館の一室で、訴えを起こした私たちと弁護士・そして被告側とのやりとりになりました。いわゆる、離婚調停をイメージするとわかりやすいと思います。
 進行というか、仕切り役は女性の裁判官でした。被告側は、弁護士のみで、結局最後まで被告は出廷しませんでした。
 被告側は、晃が無謀な運転をしていたことを主張しました。世間一般的に、若い子達のはめをはずした行動を、裁判官にも印象づけたかったのでしょうか。
 被告側弁護士は、「二人乗り」「ノーヘル」での運転であることを、とてもきびしい口調で言いました。しかし、裁判官は、「ヘルメットはしていたのではないですか!」と、言ってくれました。
 事前に、晃の遺品リストを書面で提出していましたし、もちろん警察にも記録があります。
 これには、私たちは本当に救われた気がしました。被告側も、二度とヘルメットのことは言いませんでした。
 被告側が、なぜノーヘルと主張したかですが・・・「事故のとき、ヘルメットが現場付近になかった」という、被告の運転手の証言に基づいたものです。
 しかし、ヘルメットはありました。ただ、確かにヘルメットはかぶっていましたが、事故の衝撃で現場付近に落ちたのか、ヘルメットのベルトをしていなかったか、あるいは車の下から救出されたときもヘルメットをしたままだったか・・・・そこまでは、民事裁判なので、はっきりさせることはありませんでした。
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 晃の事故があった現場付近は、地図を拡大し、ミラーの位置、横断歩道、道路に描かれていた文字や横断歩道を落とし込んでみました。
 晃は江川沿いの道を、北から南に走ってきました。そして、被告の車はこの道と交差する油橋手前の交差点で衝突しました。
 道の幅員自体は微妙で、歩道部分を含めると晃が走っていた道が広くなりるのですが、はっきりどちらが優先とはいえません。交差点には、車の進行方向から左右にミラーが2箇所・両方向から見えるよう1箇所に2枚ずつ設置され、計4つ、ついています。また、車が進んだ道は、『横断歩道あり』のマークと、『交差点注意』と路面に描かれています。そして、交差点手前には、横断歩道があります。
 一方、晃の方は、薄くなっていましたが、交差点手前に『止まれ』と描かれています。
 でも、公安委員会の正式な標識ではないので、道路にいろいろ描かれていても、優先道路は決めかねるのだそうです。
 車が通った道は、近くのせせらぎ菖蒲園(せせらぎ公園)が整備されたとき、できた道です。晃が小学校低学年のときなので、せいぜい10年ほど前でしょうか。
 晃が走っていた道は、幼稚園バスや中学校の通学路で、通いなれた道でした。ですから、「晃がこの道で注意を怠るわけはない」と、思いました。
 さらに、「バイクにまったく気がつかなかった」と担当検事から聞いていましたので、前方不注意と、かなりのスピードが出ていたのではないかと指摘しました。
 普通では、バイクが車の下敷きになり、そのまま何メートルも引きずられることは、考えられませんから。
 

 2回目の裁判は、4月15日午前10時からと決まりました。
 晃の誕生日が4月12日なので、生きていれば18回目の誕生日を、家族みんなでお祝いしていたでしょう。それから、「18歳になったら、車の免許を取りたい!」と言っていたので、教習所に通っていたかも知れません。

 裁判の前には、書面で双方の言い分を提出することになっています。現場に何度も行き、あらためて細部まで調べました。また、目撃情報がないか、プリントを作り配ったりしました。
 目撃情報については、警察でも現場に立て看板を設置し、情報の提供を呼びかけていましたが、その瞬間を目撃した方はいませんでした。
 警察の記録では、2件の情報となっていましたが、それは「2人乗りのバイクを見た」というもので、事故の直接原因を決定できるものではありません。1件は、事故現場にいた方で、「現場方向に走っていくのを見た。でも、かかわり合いになりたくないので・・・」と言って、立ち去ったそうです。もう1件は電話で、「せせらぎ公園のわきの道を、2人乗りで走っていった」というものです。
 私も、何とか事故を実際に目撃した人が出てきてくれないかと祈っていましたが、現れることはありませんでした。

 晃のことの続きを書くつもりでしたが、今日はお世話になった方の告別式、夜も用事が入っていたので、ブログを開くのが今になってしまいました。
 アルコールも入っていて、晃のことはすいませんが明日にさせていただきます。

 今日の告別式は、富士見市立みずほ台小学校の校長先生。坂戸の法要殿で、行われました。亡くなられたのは、26日午前7時、直接の原因は肺炎と聞きました。
 校長先生は、中学校の保健体育の教師を長年勤め、教頭になり、初めて校長になったのがみずほ台小。富士見市にも、初めての赴任でした。
 「中学校しか経験がないので、困った!」と言いながら、児童や保護者、地域と向き合う姿は、素晴らしかったです!!
 たまたま私は、平成18年、みずほ台小の30周年記念事業の実行委員長を務めさせて頂きました。準備は前年度からですので、初めて校長になったときからのお付き合い。一緒に飲んだり、お話しをしたり、想い出は尽きめせん。
 今年度で、定年(60歳)ということで、任期はあと5ヶ月ほど、さぞ無念な思いだったでしょう。
 もともと、中学校の体育の教師だったので、若い頃は血気盛んだったようですが、初めての小学校では、児童をものすごく大切にていました。PTAにも、とても理解がありました。
 お子さんが2人いて、男女1人ずつ。男のお子さんが練馬区に就職したときは、本当に嬉しそうでした。
 「退職したら、再任用や再雇用(定年以降給料がガクンと減りますが、経験を生かした仕事につくこと)はいやだ。苦労をかけた家内と一緒に、たくさん旅行に行きたい!」とおっしゃっていました。
 責任感が強く、具合が悪いのに先月の運動会には出勤されていました。「もっと早く入院していれば・・・」と、つい思ってしまいます。
 そして、苦労をかけた奥さんには、「これから2人の楽しいときをすごそう!第2のスタートは来年の4月だ!!」と思っていたことでしょう。
 私もこの年齢になり、妻のありがたさ、人のありがたさに感謝するようになりました。きっと、校長先生も奥さんに、そしてお子さんたちに思いは届いているでしょう。
 ご冥福をお祈りし、合掌です!!

 

 私は弁護士と相談し、被告人は運転手本人と実質的な車の所有者である、建築会社のオーナーにしました。実は車の名義は第三者のもので、この会社に譲渡するとなっていたそうです。そして、この車を使い会社に行く途中事故を起こしたわけです。
 裁判の目的は、なんとしても事故の全容を知り、原因をはっきりさせることです。

 弁護士から、第1回の裁判は、3月10日午後1時10分から川越地裁で行うことになったと、連絡が入りました。
 裁判は、やはり子どもたちも気になるようで、家族全員で行きました。私たちが想像していた裁判とはまったく異なり、こういう申立て案件があるということを裁判官が話し、書面の提出、次回の日程を決めて終わりでした。時間にして、15分ほどでしょうか。実に、あっさりしたものでした。

 相手側はやはり、原付バイクに二人乗り、ノーヘルという無謀な運転が事故原因であると、書面で申し立てました。
 「これでは、絶対納得がいかないでしょう。書面をよく読んで、具体的な事実で反論しましょう」と、弁護士に言われました。そして、日をあらためて、相談することにしました。

 知人から弁護士を紹介してもらい、訴訟を起こすための準備を始めました。
 12月になり、晃の1周期。晃の友達も、50人ほど来てくれました。あれから、もうすぐ1年が経ちます。
 地検から、加害者は80万円の罰金刑である旨、通知書も届きました。でも、事故のはっきりした原因はわからないままです。やはりこのままでは、私たち家族の心は晴れません。
 
 子どもたちの大好きなクリスマス。晃の席もつくり、晃へのプレゼントも用意しました。「きっとクリスマスくらいは家に戻ってくるよ!」「そうだよね」などと話しながら。

 平成21年、新しい年を迎えました。元日は、家族で墓参り・・・晃のいない正月は、とても淋しいものでした。昭和60年に長女が誕生し、それから少しずつ家族が増え、みんな健康で新年を迎えられることが、どんなに幸せなものか。去年まで、あんなににぎやかだったのに。
 もう、お年玉をあげることもできなくなってしまいました。
 1月7日、川越地方裁判所に出訴しました。

 昨日、今日と妻と一緒に映画を観に行きました。それが、タイトルの2本。どちらも、「人間っていいな!家族っていいな!」と感じる作品でした。
 昨日の『引き出しの中のラブレター』は、とても癒される作品でした。ラジオを媒体として、そこにかかわる人間、人と人のつながりを描いた秀作。ラジオ世代の私にとっては、懐かしさとともに言葉の重さも響いてきました。仲代達矢さん、八千草薫さんの元気な姿も嬉しかったですし、伊東四郎さんはいろいろな映画にキーになる役で出演していますよね。常盤貴子さんは、年齢に合わせたパーソナリティーを見事に演じていました。
 『沈まぬ太陽』は、「すごい!」のひと言。今年の映画賞レースは、「独走するのでは」と感じました。冒頭の航空機の墜落と、象を撃つシーン・音が重なり、タイトルが出ます。いきなり、「この先はどうなるの」と、観客を引き込んでしまいます。墜落事故と主人公の過去のことが、実に絶妙なタイミングで行ったりきたり。海外ロケの部分も、くどくならず(けっこう風景だけを延々と見せられるとつらいですよね)、かといって言いたいことは十分伝わってきます。
 昨年夏の『クライマーズ・ハイ』とは違った観点で、事故の遺族の心情もよく描かれていて、客席からはすすり泣きも聞かれました。私たちも、何度か涙が・・・
 労使紛争が華やかだった頃から、自分を貫き通した人間、それを理解してきた妻、時間をかけて理解した子どもたち・・・そして、日本航空を連想させる(まあ、そのものなのですが)国民航空という特殊な企業、政治との絡み・・・重厚で見ごたえがあり、長いとは感じなかったですね。
 最後は、「主人公や家族はこの先どうなるのだろう?この企業は?そして日本の未来は?」と、余韻を十二分に感じさせてくれました。
 妻とも話したのですが、途中に休憩があり、2本分観たような気になりました。これだけ長い(予告・休憩を含め3時間半ほど)と、1日の上映回数も減ってしまうのに、夫婦50割で一人当たり1,000円で観てしまい、申し訳ない思いがしました。

 9月半ばの土曜日、私の友人にトラックを調達してもらい、2人で東入間警察署に晃の遺品を取りにいきました。
 この友人は20年来の家族ぐるみの付き合いで、お子さんが3人。一番下の子は晃と同級生で、幼稚園と中学校は一緒、中学では部活も同じ野球部でした。赤ん坊のときは、ひとつのベッドで晃と一緒に寝ていたのを思い出します。中学を卒業しても、とても仲がよく、事故のときも真っ先に駆けつけてくれました。
 さて、遺品ですが、まず署内でビニール袋を渡され、中身を確認しました。焦げたジャンパー、携帯電話、財布、そして消火剤のついたヘルメット。
 携帯電話は、一部が溶けへこんでいて、使える状態ではありませんでした。事故のあと、晃の携帯がどこかにあるのではないかということで、事故現場の橋の下を流れる川にまで、友達たちが入って探してくれたそうです。
 財布には、たいしたものは入っていなかったですね。お金もわずかで、「もっと持たせてやっておけばよかった」と思いました。
 加害者側が、ノーヘルといいましたが、ちゃんとヘルメットもありました。
 それから、警察の駐車場でバイクを見せてもらいました。燃えてしまう素材、ゴムや革の部分はすべてが消失し、「残骸」というほかありません。悲惨な事故を思い浮かべ、涙がとまりません。
 担当の警察官から、「本当に引き取るんですか?こちらで処分しましょうか」と言われましたが、晃と一緒に車の下敷きになったバイクです。持ち帰って、家においておくことにしました。
 このバイクを見たときの妻や子どもたちの顔は、今でも忘れられません。私と同じように、「あっ君、痛かっただろう!熱かっただろう!」と思ったでしょうし、たくさんの思い出が頭をよぎったことでしょう。
 このバイクは、今年の晃の命日すぎまで、家にありました。見るたびにつらくなるバイクでしたが、3回忌を終えたことで、これからのことも考え、処分を決めました。つらい決断ではありましたが・・・

 

 晃の新盆も終わり、9月になりました。
 地検の川越支局の担当検事から連絡があり、私はそこに出向きました。1時間ほどだったでしょうか、話を聞き、私の思いも伝え、調書が作成されました。
 担当検事からは、「私のあつかった事故で、焼死というのは2件目で大変まれなケース、ご家族の心中は察するに余りあります。今回の事故では、加害者がまったくバイクに気づかなかったため、橋の中ほどまで車の下敷きになったまま引きずられ、もれたガソリンにより炎上しました。加害者は、衝撃を感じたので、ブレーキをかけました。まさか、車の下にバイクと息子さんがいるとは思わなかったのです。ですから、交差点付近に倒れていたショウ君を見て、『人をはねてしまっ』と思ったそうです。車の下に息子さんだいることは、通りがかりの人に教えられて、やっとわかったのです。」と説明がありました。
 私は、「車の前にいたバイクがまったく見えないなんて!」と、信じられない思いでした。
 担当検事は、続けました。「事故の目撃情報はほとんど得られず、『2人乗りのバイクが現場方面へ走っていくのも見た』というものが、2件ほどありました。また、状況を一番わかっているショウ君からも話しを聞きましたが、このときの記憶がありません。いろいろ検討しましたが、今のところ罰金刑が相当だと考えています」ということでした。
 それから、私の思い・家族の思いを話したり、励ましの言葉もいただきました。私は、事故原因をはっきりさせるために、裁判も考えていることを伝えました。また、刑が確定した段階で、書面で通知してもらうことにしました。

 数日後、警察から電話があり、「捜査が終了したので、ご希望があれば息子さんの遺品をお返しします。バイクはフレームだけになっているので、見ないほうがいいかも知れません。こちらで処分もできます」というものでした。
 私は、「すべて引き取りたい」と話し、引き取る日時を決めました。

 晃にいない、夏がやってきました。
 家内の実家のフィリピンにも、家族で行き晃のことを伝えました。

 私は、上の子たちがもの心つくようになってから、毎週家族全員で出かけるようにしました。そして、旅行にも年4~5回は行くようにしました。
 お金はなかったのですが、子どもが小さい頃こそ、家族全員ですごす機会をたくさん持ちたいと思っていました。また、妻にも「日本のいろいろな場所を知ってもらいたい」とも思っていました。
 親が手をかけてやれるのは、子どもが小さい頃だけです。淋しいですが、子どもが成長すれば、親から自然と離れていくでしょう。だからこそ、今しかないという時間を大切にしてきました。
 子どもたちの幼稚園・学校の振替休業日や、参観日は、必ずといっていいほど仕事を休んでいましたので、出世とは縁がなかったですね。

 1年前の夏、もう晃は高校をやめていましたが、「旅行に一緒に行けないか?」と聞くと、ニャッとしながら「たぶん行けると思う」という答えが返ってきました。私はすぐに、「行きたいんだな」と感じました。長女・次女はもう20歳を超えていたので、家族旅行にはあまり興味を示しません。小さい頃には、あんなに楽しみにしていたのに・・・
 一番下の子どもは小学6年生で、まだまだ旅行に行きたいわけです。でも、行くのが自分と親だけでは、気乗りがしません。そこで、晃の出番となるわけです。
 この年は、新潟と鬼怒川に行きました。中学生の娘も、シブシブついてきました。このときの写真は、今でも部屋に飾っていますし、携帯の待ち受け画面にもなっています。
 写真といえば、平成19年の成人式の日、次女が成人を向かえ家族で写真を撮りました。このときは、まさかこの写真が晃の遺影になるとは、誰も想像すらできませんでした。

 警察からは、埼玉地検川越支局の担当検事を教えてもらい、連絡を取ると、「秋には加害者の処分が決まる予定」とのことでした。この頃には、裁判を起こす方向で、家族の意見がまとまりました。
 

 5月になりました。ショウ君も退院し、リハビリのために通院をしています。もちろん、事故前後の記憶はまったくないまま。今でも、このときの記憶は戻っていません。

 本来ならば、さわやかな季節の到来。でも、私たち家族の心は晴れません。それは、加害者側が作成した「事故の否はすべて晃にある」との嘆願書を見てからです。
 「どうして徐行が義務付けられている場所で、あんな大事故が起きたのだろう?」「原因は何だろう、本当に晃が悪かったのか?」・・・疑問だらけでした。
 警察にも何度か行って話しを聞きましたが、刑事処分が出る前なので、事故についての肝心な部分は教えてもらえません。それでも、「加害者にかなりの責任がある」との心証は受けました。また、あれだけの事故で捜査に時間がかかっているとのことで、晃の遺品もまだ返却してもらえません。
 
 私は、弁護士の方が行っている相談会に行きました。1時間ほどお話をしましたが、たいへん参考になりました。
 事故の原因をはっきりさせるには、裁判を起こすのが一番だということ。そうすれば、警察の持っている調書等も開示されることになる。でも、当事者が亡くなっているので、不利な要素もある。そして、お金と時間がかかる。でも、お金ではなく、息子さんの名誉のためであれば・・・というものです。
 私は、家族にもこの話しをし、だんだん裁判を起こすことに、気持ちが傾きだしました。
 

 今日は、妻の48回目の誕生日です。結婚したのが、1983年11月23日で、もうすぐ26年間人生をともに歩いてきたことになります。5番目の子どもの誕生日も11月23日なので、絶対結婚記念日は忘れられません。
 私とは9歳近く離れていて、結婚当時は「犯罪だ!」と周りの人から冷やかされたのを、今でも思い出します。
 このブログでも紹介させていただきましたが、国際結婚がまだ珍しかった時代、たいへん苦労もしましたが、今では笑って話すことができます。
 先日ある人(この人もフィリピンの奥さんがいます)から、「離婚するケースが多い中、岡村さんは26年も・・・すごいですね!」と言われました。
 日本人同士の結婚以上に、生まれて育った環境にものすごい差があるわけですから、思いやりとか理解とか尊敬とかは大事ですよね。たとえば、宗教心の強い国で育ったわけですから、その宗教を否定するようなことを言えば大ショックです。まあ、うちの場合は、妻の忍耐力がキーポイントだったかも知れません。
 26年間、大切な思い出をたくさんつくってきました。5人の子どもが生まれたときも、必ず私が家にいるとき、一緒に産婦人科に行きましたね。私の休みなり、仕事から帰ってきてから産気づくのは、「すごい!!」の一言です。
 家族全員で、でフィリピンにも2年に1回は行くようにしました。ですから、晃がなくなる2年前の夏、晃がいなくなった年の夏も行きました。フィリピンに行ったときの、元気だった家族全員の姿はビデオに残っていて、子どもたちは何度もみて、泣いたりしています。
 晃がいないフィリピンでは、どうしても晃の話しになるので、妻の家族と話しながら、私は涙がとまらなくなってしまいました。昨年は、いろいろ報告もあり、3回ほどフィリピンを訪れました。もちろん、いつも妻は一緒です。
 
 妻にしてみれば、家族を捨てるような思いで日本に来たのです・・・私だけを頼りにして。今、この年になって、妻の偉大さや大きな愛、そしてかけがえのない宝物に気づくのです。

 こうしてブログを書いている最中にも、晃の祥月命日ということで、お線香を上げに来る友達がいます。
 人と人とのつながりは、奇跡ですよね。その奇跡を、これからも大事にしていきたいと思っています。
妻には、「ありがとう」の言葉しかありませんが、これからも2人でできる限りの幸せな時間をつくっていこうと思います。

 ずっと晃のことを書いてきましたが、チョット休憩して最近観た映画のことを・・・
 「しんぼる」「カイジ」「私の中のあなた」「ATOM」「さまよう刃」などを観た、感想です。
 「しんぼる」は私一人で観に行った(ポイントを使い無料)のですが、なんと館内に私一人。これは、初めての体験でした。いきなり車が走ってくるシーンで、遠くから近づいてくるのですが、これがけっこう長い!「絶対何か意味がある・・・たとえば車なり、運転手なり、場所なり」と思ったのですが、よくわからなかったですね。舞台化して、暗転シーンを多くすれば面白いかも。でも、映画では苦しいです。
 「カイジ」は、中高生の観客が多かったです。この原作漫画を読んでいない私でも、「ザワザワ・・・」は知っているほど有名。「遊戯王」初期の闇のゲームを、思い出しました。けっこう面白かったのですが、鉄骨を渡るシーンはちょっと長かったカナ。
 「私の中のあなた」は、納得の作品。キャメロン・ディアスは、すごかったですね。姉は「死」と向かい合い、決意を固め妹に指示をしたこと。そして、家族のあり方は見ごたえがありましたね。
 「ATOM」は、手塚先生を尊敬する私としては、「どうしても観なければ」の作品。かなり、現代風のアレンジされていたのと、アメリカナイズされていたのが印象に残りました。でも、何年たっても、アトムが多くの人から愛されていることを、あらためて感じました。
 「さまよう刃」は、どうしても「半落ち」と比べてしまうので・・・「すごい!」とまでは思いませんでした。「最後に、何でこの人がここにいるんだろう?絶対無理だろう!」と思ってしまったのは、私だけでしょうか。ラストは、「グラントリノ」を思い出しました。

 加害者側が作った嘆願書には、「私の息子が原付に二人乗り、ノーヘルでの無謀な運転のため、今回の事故を起こしてしまいました。それにもかかわらず、相手の方はとても誠意のある対応をしてくれました。事故の非は私の息子にありますので、どうか、寛大な処分をお願いします」と、書かれていました。
 これに、署名・捺印をしなさいというわけです。私は、「これでは、晃が一方的に悪くなってしまう!事故の原因等もはっきりしていないのに、サインはできない!!」と伝えました。
 
 それでも、この人のためでなく、奥さんと小学生の一人っ子のためには、何とかすべきだと考えてしまいました。家族にはなんの罪はないわけで、その人たちまで巻き込んで、路頭に迷わせ不幸にすることは、つらいことです。
 最終的に、このひどい嘆願書を預かり、書き換えることにしました。
 加害者とは、私一人で話しをしましたので、この嘆願書のコピーを家族やショウ君のご両親にも見せることにしました。
 誰もが「自分のことは棚に上げて、ひどすぎる!」ということで、憤慨しました。そして、加害者の家族のためにということで、私が作った嘆願書も見せることにしました。
 私が作ったものは、「事故の原因は捜査中で、はっきりしていない。ノーヘルであったかどうかも、わかっていない。ただし、私の息子が車の下敷きになり、何メートルも引きずられ、もれたガソリンに引火したために重度熱傷で死亡した。この人の対応は、とても誠意あるものとはいえないが、家族のために処分の軽減をお願いします」というものでした。
 「これでよければ」と、加害者にこの嘆願書を渡したのは、家に来てもらってから2日後でした。

 後日、2人の弁護士とお話ししましたが、2人とも「人がいいにもほどがある。『重い処分にしてください!』と言っておけばいいんです」といわれました。
 ただ、私の生き方や性格として、相手の家族を、不幸な人をこれ以上増やしたくないと言う思いでした。
 妻や子どもたちにも、「納得できない」とずいぶん言われましたが、嘆願書への私の思いについては、 少しずつ理解してくれたようです。

 4月21日、午後7時すぎに加害者の男性が家にきました。まず、「お線香を上げさせてほしい」というので、そのようにしました。
 事故から3ヶ月以上が経過しましたが、事故の詳しい状況はわからないままです。加害者にとっても、落ち着いて考える時間があったわけで、私は、「状況の説明をしてほしい」と言いました。
 しかし、返答は「出会い頭の事故で、私も何がなんだかわからない」というもの。いくら聞いても、のらりくらりと、肩すかしの状態でした。墓参りの話などはまったく出ず、私は「この人は一体何なんだろう」と思いました。
 そのうちに、「お願いがある」ということで、一枚の紙を私の前に差し出しました。それは、公安委員会に宛てた嘆願書で、すでに文面は印字されていて、私が住所と氏名を書き、捺印すればよいというものでした。
 「事故を起こしたことで、このままでは免許取消か停止になってしまいます。免許がないと、生活ができません。被害者側の嘆願書があれば、処分も軽くなりますので、何とかお願いします」と言います。
 私は、このときまで「もしかしたら、この人も被害者なのかも・・・」とも、考えたりしていました。
 
 嘆願書の文面に、目を通しました。それは、私にとっても家族にとっても受け入れがたいものでした。

 4月、3女は高校へ、次男は中学生になりました。末っ子の次男が、あるとき涙をこぼしながら言いました。「僕、あっ君になる!中学では、野球部に入る!」と・・・
 晃は、きょうだいからもとても愛されていました。晃がいたからこそ、5人のきょうだいが仲良く、絆を紡ぎあってこれたと思います。
 次男の気持ちはとても嬉しかったのですが、「君は君、晃は晃だから。無理をして晃のようにしようと思っても、けして晃は喜ばないよ。君は、自分のやりたいようにやるのが一番いい!」と話すと、納得してくれました。
 4月12日は晃の誕生日。私たちの家にも、お墓にもたくさんの友達が来てくれました。そして、事故現場のそばにも、花や晃の好きだったコーラなどが置かれました。
 晃・・・たくさんの人に愛されて、本当に幸せものです。
  
 4月20日、私と妻は2人でコンサートに行きました。五反田の駅から会場まで歩いている途中、私の携帯が鳴りました。それは、加害者からのもので、「今日、これから伺いたい」というもの。私は「今日は無理なので、明日にしてほしい」と伝え、午後7時に私の家で会うことにしました。
 私は、「きっと、相手もずっと苦しんでいて、晃の墓前に花でも供えたい。これまでの謝罪と、墓地を教えてほしい」などと、勝手に想像してしまいました。
 しかし、翌日には、そんな予想は見事に裏切られました。
 

 2月のある日、ショウ君のお母様から電話がありました。それは、ショウ君が事故のこと・晃が逝ってしまったことを知ったというものでした。
 ショウ君は回復も順調で、病院内も歩けるようになりました。院内には、携帯電話を使えるエリアがあるので、やっと携帯を渡したそうです。そして、晃のブログの書き込みを見て、すべてを知ってしまいました。
 ショウ君は、すぐにお父さん・お母さんに電話し、「何で知らせてくれなかったのか!」といって、ひどく取り乱し、号泣したそうです。
 そして、「どうしてもお線香を上げたい」ということで、夜病院を抜け出し、私たちの家に来てくれました。お父様も、ご一緒でした。
 私は、「ショウ君には、黙っていて申し訳ない。でも、ご両親が悪いわけじゃなく、私たちが知らせないようお願いしたんだ。晃だって、ショウ君が元通りになることを、何より望んでいるはず。だから、ショウ君には余計な心配をさせたくなかった」と話しました。
 事実を知ったときは、混乱したようでしたが、このときには落ち着きを取り戻していました。
 そして、涙をこぼしながら、「あっ君にもらった命だから、精一杯生きて行こうと思います」と言ってくれました。
 つらかったでしょうが、いろいろなことを考え、晃のためにどうすればいいのか、分かってくれたようです。
 
 平成19年3月2日、晃の49日の法要と納骨を行いました。このときも、病院を抜け出し、ショウ君はお父さんと一緒にお墓まで来てくれました。
 本当のことを言うと、骨になってしまった晃を、ずっと家に置いておきたかったのですが、それも許されないこと・・・病院での別れ、火葬場での別れ、そしてお墓での別れ・・・人生には、こんなに苦しくてつらいものがあるなんて・・・家族の誰もがそう思いました。

 そして、桜が咲き、桜が散り・・・私たちは「もう事故のことは忘れよう!晃をゆっくり眠らせてあげよう」と思っていました。

 晃の葬儀が終わっても、家族全員が、晃はまだ家にいるような気持ちでした。それは、骨だけになってしまった晃でも、「ここにいる!」と思いたい家族の思い、位牌や骨壷に向かい手を合わせるたびに、晃の声が聞こえてくる・・・理屈ではなく、心が晃の死を信じさせないからです。

 でも、一番心配だったのは、ショウ君のこと。子どもたちも、頻繁に見舞いに行っていて、状況を報告してくれました。ただ、晃のことは伏せておくように話しました。それから、見舞いに行く可能性のある友達にも、晃のことは話さないよう、連絡させました。

 ショウ君は、意識が戻った後、日に日に回復をしてきたのですが、後遺症が残るかもしれないとのことでした。私も、ショウ君のご両親に連絡を取り、妻と一緒にお見舞いに行きました。
 ご両親と話し、晃のことはショウ君にはショックが大きすぎるので、当分伏せておくことにしました。
 私たちが訪れたとき、「ずいぶん元気になって、よかった!」というのが実感で、妻とともに喜びました。
 でもショウ君は、視野が狭くなってしまい、回復してもリハビリが必要で、いつ退院できるかわからない状態。なにより、事故の前後の記憶だけはすっかりなくなり、バイクも自分が一人で運転していたと思い込んでいました。
 生死のはざまをさまよったショウ君、思い出すのがあまりにもつらい記憶は、消し去るのが回復への最良の道だと思いました。
 何度かお見舞いに行くたびに、不明瞭だった言葉もわかるようになり、ショウ君が回復していることははっきりわかりました。でも、毎回「あっ君は、何で来てくれないの?」と問われ、「今、具合が悪くて・・・」とウソをつくのは、とてもつらかったです。

 ウソは、いつまでも、つきとおすことはできません。ころあいを見て伝えようと、ショウ君のご両親とも話していましたが、それより先にショウ君は現実を・晃のことを、知ることになってしまいました。

 晃の葬儀には、本当にたくさんの方に来ていただき、晃が多くの人に愛されていたことを、あらためて感じました。予定通り、晃の大好きだった音楽も流されました。
 通夜では、当初3人ずつ焼香してもらう予定でしたが、参列者が多く、急きょ6人ずつとなりました。
 住職の方に後で聞いたのですが、「私が携わった葬儀でも、一番盛大でした」と言っていただきました。そして、「同じお経を2度上げるわけに行かないので、覚えているお経が少なくなっって『どうしようか』と思いましたよ。私の前にある焼香台はステンレスでできていて、参列者の様子がわかるのですが、列がやっととぎれたときホッとしました」と。
 休むまもなく、1時間以上ずっと声を出し続け、お経を上げていただき感謝のかぎりですし、修行のすごさを感じました。
 加害者側の運転していた本人と、その会社のオーナーも、香典として1万円ずつ包んで弔問に訪れました。私は、恨みや憎しみよりも、「もう、この人たちにはかかわりたくない」というのが率直な気持ちでした。
 しかし、その気持ちは、あとで大きく変わることになります。
 
 告別式の後、火葬場にも晃と仲のよかった友達は来てくれました。荼毘にふされるときは、まるで宇宙に旅立つような感じでした。きっと銀河鉄道に乗って、微笑みながら私たちをみていてくれることでしょう。
 一通りの儀式が終わり、家族だけになったとき、私たちだけにしか共有できない、なんともいえないせつなさがこみ上げてきました。

 晃が家に帰ってきたのは、1月20日の夜です。晃が生まれた家、初めて笑い初めて歩いた場所、みんなで食事をし、笑ったり・泣いたり・おこったりした思い出の場所。もう苦しまなくていい・・・晃も、やっと落ち着いたことでしょう。
 晃の事故については、私は自分を責めました。もし、免許を取ることを許可しなかったら、バイクを購入させなければ、もっといろいろなところに目を光らせていれば・・・それは、家族全員が同じ思いだったのです。ですから、家族の中で、誰かを責めるとか、「こうしていれば良かったのに」という話しも、まったくでませんでした。

 ゆっくり眠っている晃を見て、「晃!君が生まれてきてくれたこと、本当にありがとう!」と伝えました。そして、家族の一人ひとりが、思っていることを、晃に伝えました。

 葬儀は、「晃の大好きな音楽を流したい」ときょうだいが提案しました。会場となるお寺の住職に相談すると、「音楽で送ってあげるのは、素晴らしいことです。お経を上げているとき以外でしたら、流していただいてかまいません」とのことでした。
 そのことを話すと、きょうだいたちは、晃の好きだったクレバやバンプの曲の編集に取りかかりました。
 ショウ君のための千羽鶴も、出来上がっていました。

 晃には、「どうしてもこれだけは!!」と、ひとつだけお願いしました。それは、「ショウ君だけは、絶対連れて行くな!」ということでした。
 もし、ショウ君に万が一のことがあれば、私たちはもうどうしていいのか、わからなくなります。晃とショウ君は大親友で、事故の日も、お互いに軽い気持ちで原付に2人で乗ったのでしょう。でも、運転手である晃に、一番の責任があると・・・私も家内もそう思っていました。
 だからこそ、ショウ君だけは救うのが、晃の最後の務めだと思いました。

 実は、晃が他界した頃、ショウ君の意識が戻ったということを、後で知りました。
 
 晃の遺体は、安置室に置かれました。とてもいい顔をし、眠っています。「これは夢なのか、現実なのか?」、頭の中は混乱状態です。「今にも時間が巻き戻るのでは・・・」、そう思ってしまいます。
 長女も、駆けつけました。そして、晃の友達も、わざわざ病院まで来てくれました。
 何もかも信じたくない思いでしたが、現実の問題として葬儀等をどうするか、ということになります。身内にとっては、そうした段取りをきちんとしなければという思いが強く、自分を保てることができました。
 晃の両足も、まだ火葬されていなかったので、棺に一緒に納めてもらうことができました。
 通夜は1月22日、告別式は23日と決まりました。

 1月20日、土曜日。私の家で、徹夜で鶴を折ってくれたみなさんには、ただただ感謝です。
 事故から4日目、晃も何とか安定してきたと、みんなが思っていました。長女が「用事があるので、今日は夜の面会だけになるけどいい?」と、私に聞きました。私は、「晃は退院まで長丁場になると思うから、仕事や用事や学校もきちんとしながら、病院にできる限り行くようにしよう!」と話しました。長女も「そうだね」と、言ってくれました。
 親父の墓にお参りしてから、午後の面会に行きました。家族の中、長女だけは用事のためいません。待合室で、定刻の面会を待っていました。午後2時をすぎましたが、面会のコールはありません。
 「面会はまだでしょうか?」と尋ねると、「今治療中なので、もう少しお待ち下さい」という答えが返ってきました。
 午後3時少し前、看護士さんがあわただしく、待合室の私たちのもとに走ってきました。「家族のみなさん!すぐ来てください!!」と言う声に、私たちもびっくりしました。普段なら、靴を履き替え、手を消毒するのですが、「そんなことより、早く来てください!」と言われ、晃のそばに駆けつけました。
 このとき、晃は最後の電気ショック、2回ほど行い、心臓が動くことはありませんでした。「晃!あっ君!」という悲鳴が、私の体を貫きました。とめどない涙があふれ、誰もが言葉を失いました。看護士のみなさんも、泣いていました。
 平成19年1月20日土曜日、午後3時00分に逝去。絶対に、忘れられない日になってしまいました。

 長女には、まさかのことをすぐ連絡しました。「え!そんな・・・といった後、間をおいて、涙声で、すぐに病院に向かうから!」と言う返事でした。
 長女には、本当に申し訳ないことをしました。どんなに、晃の死に目に立ち会いたかったことでしょう。私が、一緒に病院に来るように話していれば、悔しい思いをさせることもなかったと思います。今でも、本当に申し訳なく思っています。

 面会が終わったあと、担当医からの説明があり、妻と私、長女・次女とで聞きました。
 それは、「昨日に比べれば、予断は許せないものの、安定しています。感染さえなければ、体力もあるので、期待は持てます。切断した両足ですが、意識が戻り元気になったときのことを考え、火葬の手続きをとってください」というものでした。
 私たちは、危機を脱したような安堵感がありました。そして、「先生がここまで言うのだから」と、両足を火葬する手続きをとりました。
 夜も、家族全員で面会をし、意識が戻らない中でも、みんなが、晃が言いたいことを感じることができました。だれもが、「晃は確かに生きている!絶対に回復する!!」と思いました。
 私は、「晃は絶対に帰ってくるから、みんなで頑張ってお金を貯めて、車椅子でも生活できるようにしよう。家をリフォームして、道路から家に車椅子で入れるよう、晃の特別な部屋をつくろう!」と提案しました。みんな、うなづいていました。
 一方、ショウ君は状況に変化はない、とのことでした。
 家に帰ると、友人・知人が続々と集まってきました。明日は土曜日と言うこともあり、その数は30人をゆうに超えていました。みなさんには、晃の安定してきた状態を伝え、千羽鶴の思いが届いたのではと話しました。
 明け方、ショウ君のお母さんが、たくさんのおにぎりの差し入れを持ってきてくださいました。
 私たち家族は、「このまま安定するのでは・・・」と、期待していました。
 
 

 病院に向かう車には、家族全員が乗っていました。今日も学校を休んだ中学生と小学生の子どもたちは、「今日こそあっ君に会えるよね!」と言います。20歳を超えた子どもたちも、「何とか会わせてあげて!」と言います。
 晃の姿は、親の私たちがみても、衝撃的なもの。戦争で手足を失って・・・という話しやドラマは知っていても、現実のものとして小さな心が耐えられるかどうか。
 しかし、もしものことがあれば、晃に会えないままになってしまいます。それでも、もしかしたら晃の元気なままの姿を、思い出にした方がいいのでは、とも考えてしまいます。
 結局、面会の許可がおりれば、会わせることにしました。そして、親が責任を持つことで、幼いきょうだいの面会も許されました。それがよかったのかどうか、今でも時々考えてしまいます。
 
 集中治療室にいる晃のベッドのそばに、千羽鶴を置きました。そして、きょうだい一人ずつが晃の手を握り、声をかけました。呼吸器を付け、コードや管も付けられた上半身、オムツだけの下半身。みんなが、涙をこらえることができません。
 それでも、「晃の手を握ったときに反応があった」と子どもが言います。そう、私が手を握ったときも、握り返してくれたように感じました。そして、たしかに、晃の閉じた目から、涙がこぼれました。

 1月19日、金曜日。早朝には、千羽鶴がひとつ出来上がっていました。それでも、鶴を折る作業は続いています。ショウ君にも、そして晃にもたくさんの鶴を、回復の願いを届けたいという思いだったのでしょう。
 千羽鶴を持って病院に行こうとしたとき、ドアのチャイムが鳴りました。ドアを開けると、そこには、事故の加害者と、加害者が勤めていた会社のオーナーがいました。
 「この度は、申し訳ありませんでした」と言う言葉とともに、お見舞いとして2万円を持ってきました。加害者は、業務上過失傷害ということで取調べを受けていたため、訪問が今日になったとのことです。
 あまり会いたくはなかったのですが・・・このときは、晃にも一定の否があると思っていましたので、その旨も話し、見舞金も受け取ってしまいました。
 でも、事故の状況等をたずねると、まったく話してくれません。何度たずねても、一向に口を開こうとしません。警察の取調べ中ということも、あったのでしょうが。
 すっきりとはしませんでしたが、早々に引き取ってもらいました。何か、その人を、責める気にもなりませんでした。
 その後、子どもたちと病院に向かいました。中学生・小学生の子どもたちと晃との面会は、一晩悩み続け、まだ結論は出ていませんでした。

 夜を徹して千羽鶴を折っている人たちがいる中、私はふとんに入りました。寝ているのか、起きているのかわからないほど、頭の中はぐるぐると時空さえ超え、さまざまなことが渦を巻きます。
 面会できなかった中学生・小学生の子どもには、晃に会わせたほうがいいのかどうか。呼吸器を付け、上半身は裸で心拍等を計る器具も取り付けられています。下半身はオムツで、その下は何もありません。
 私たちでも、会ったときの衝撃は言葉にできないもの。まして、中学生以下の子どもでは・・・でも、万が一のことがあれば、最後の会うチャンスを奪ってしまう・・・どうどう巡りでした。

 それから、今朝事故があった同時刻に現場を訪れたこと。双方徐行の交差点で、なぜ晃のバイクが車の下敷きになり、何メートルも引きずられなければならなかったのか。
 事故現場の道は、晃が幼稚園の頃から幼稚園バスで通っていた道。中学校では、この道を使って通学していました。おそらく、1,000回以上は通った道です。交差点のことも、わかっていたはずです。

 事故があった前夜は、ショウ君が私たちの家に泊まり、朝のドライブとしゃれ込んだのでしょうか。晃には、「原付で絶対二人乗りはするな!」と何度となく言い、その度に「わかってるよ!」と答えが返ってきました。
 晃は、県立高校を1年で中退しました。「何かいやなことがあれば、はっきり言いなさい!」と言う私の話しにも、「高校をやめて働きたい!整備士になりたい!」と言って、譲りません。1ヶ月ほど考える時間を作りましたが、考えは変わりませんでした。
 高校生のバイトはそれなりにありますが、中退・16歳では難しいですね。派遣に登録しましたが、回ってくるのは人手が足りない現場。朝早くから引越し作業で、「疲れた!」です。
 事故に会う2ヶ月ほど前、「もう1回高校に行ってもいい!」と晃が私に言いました。「もちろん!君がやりたいことをやって、夢をかなえられれば!これまでも、これからも応援するよ!」と言ったとき、ほほえんだ晃の顔は忘れられません。

 晃が小さい頃、我が家では家族全員で夕食をとることにしていました。ある日、長女が修学旅行で、一人欠けてしまいました。晃は、「家族の一人いないって、とっても淋しいね!」と言って、私は「そうだよね!みんながいないと楽しくないよね!!」 と、たった1日でも、家族が揃わない淋しさを口に出したものです。でも、子どもが成長する楽しさと淋しさは、親が一番感じますよね。

 晃は、親に対して絶対に生意気な口をきかない子でした。だから、多くの友達のも慕われていたのでしょう。みんな一生懸命、君のために鶴を折ってくれていますよ!!
 

 私の父は、晃が生まれたときに初めての男の孫ということで、とても喜んですぐにベランダに立てるこ鯉ぼりを買ってきました。晃が4月生まれで、「すぐに鯉のぼりを立てなければ」と思ったのでしょう、自転車にめったに乗らない親父が、一人で自転車に乗って買ってきました。
 晃の誕生をとても喜んでいた親父も、平成5年1月15日に晃が入院した同じ病院で、癌のため他界しました。親父の墓は、病院からほど近い川越聖地霊園。私たちは、親父の墓にも通い、「どうか晃を助けてください!」とお願いしました。

 夜の面会時刻、「ご希望があれば20歳を超えたお子さんは、一緒でもかまいません」と言われました。長女・次女は、私たち夫婦に続いて集中治療室に入り、晃と面会しました。
 赤ん坊のような晃の姿に、絶句し、涙がぽろぽろ。それでも、気力をふりしぼって励ましの言葉をかけていました。
 中学生・小学生の子どもたちは、長時間病院にいて、文句ひとついいませんでした。状況は、子どもたちなりに理解していたのでしょうし、自分たちのできることは、晃の近くにいることだとわかっていたのでしょう。それでも2人に、「明日はあっ君にあいたい!」といわれ、胸が痛みました。
 ショウ君も、昨日と変わりない状況。ご両親も、長時間、待合室にいて、心中は察するに余りあります。
 昨夜同様、たくさんの仲間が家に来て、一生懸命千羽鶴を折ってくれました。人数的には、昨日より多くなり、自分の家で折ったり、知り合いに頼んで折ってもらった鶴も持ち込まれました。
 「何とか早く、病室に千羽鶴を届けたい!」そんな思いは、ビシビシ伝わってきました。

 1月18日木曜日、事故から2日目。私はどうしても晃のそばにいたかったので、しばらく休む旨職場に連絡を入れました。
 中学3年生の3女、小学6年生の次男も「とても学校に行く気になれない」ということで、家族全員で病院に行くことにしました。
 集中治療室での面会は、午後2時ごろと午後7時頃の2回。治療の状況により、面会できなかったり、面会時刻が遅れることもあります。
 この日の1回目の面会ですが、「お父様とお母様だけにしてください」といわれました。子どもたちを待合室に残し、私と家内は治療室に入りました。
 そこには、呼吸器を付け意識のない晃がいました。すぐに、下半身に目がいきました・・・オムツをつけ、そのオムツから出ているはずの両足はありません。下半身は、『オムツに包まれている』だけのものになっていました。
 妻はすぐ「あっ君!」と言って、私の足元に崩れおちました。私はちは小さくなった晃の姿に、息が止まりそうになり、そして涙が止まりません。
 妻は、私が支えてやっと立っていられる状態。それでも晃の手を握り、「がんばろうな!」「大丈夫だよ!」と声をかけました。
 待合室にいた子どもたちのそばまで行くと、私も泣き崩れてしまいました。それでも子どもたちは、「あっ君大丈夫だよね!足がなくなっても帰ってこられるよね!」と聞いてきます。私も家内も、うなずくのがやっとでした。
 ショウ君のご両親もそばにいらしたのですが、私たちを見てかける言葉もなかったようです。ただ、一緒に泣いていただきました。